一人になったサフィラは寝台の上に寝そべって、ぼんやりと取り留めのない考え事をしていた。
が、暫くして突然身を起こし、先程立ち去ったトリビアとリヴィールをもう一度呼び付けた。
「お呼びですか?」
明るい空色のドレスをひらひらさせてトリビアが、少し遅れてリヴィールが再び部屋に姿を現した。
「マティロウサの所へ行く。ブーツとマントの用意を」
「あら、まあ、随分お久し振りのことでございますわね」
「うん。夕方までには帰ると思うから」
「でも、父王様がお許しになられますかしら? ご結婚間近で、ただでさえ神経を磨り減らしておいでですのに」
リヴィールがマントの留め金をサフィラの肩に回しながら訝しんだ。
「何、どうせいつものお忍びだから、許そうが許すまいが構わないよ。でも、そうだな、もしお前達が咎められでもしたら 『結婚してやるんだから、文句は言うな』 とでも言っておけ」
そんなこと言えませんわ、と口を押さえる侍女達をどうにか取りなし、「安心しろ、ちゃんと戻ってくるから」と言って、サフィラは部屋を出た。
このまま逃げ出してしまいたいのは山々だが、と言い掛けて、思わず口を閉じたサフィラである。
街道の外れのマティロウサの家に、客が訪れることはめったに無かった。
薬草を分けて貰いに来る街の民や、魔道騎士の試問を受けに来る若者達、怪我をして運び込まれた人々以外に、この魔女の家の扉を叩く者は、サフィラとサリナスぐらいのものである。
もっとも、この二人は大抵の場合、呼ばれもしないのに押しかける口であるが。
訪れる人がないのは、人々がマティロウサを少なからず恐れていたせいもあるが、マティロウサ自身が人との付き合いを好まなかったことも一つの理由であった。
「こんな不健康な家の中に日がな一日閉じ籠って……」 サフィラはよくこう揶揄った。
「たまには外に出て人と話さないと、そのうち体に黴が生えて腐ってしまうぞ。まあ、もうそうなってるかもしれないが」
少しは年寄りに敬意を払ったらどうなんだい、と、その時はサフィラを罵ったものだ。
今、マティロウサは、例の暗く狭い小部屋の中で、相変わらず魔道の品々に囲まれながら、ぼんやりと蝋燭の灯りを睨んでいた。
その光に照らされて、マティロウサの他に今一人、壁に打ち付けられた棚の面に影を落としている人物がいた。
ウィルヴァンナではない。
ずっと小柄で、ずっと年降りている老人であった。
茶色とも緑ともつかない枯れ葉色の長衣は、薄暗い部屋の中では薄墨よりも濃い灰色に見え、向かい合っている魔女と同じくらいに皺を浮かべた、もっともマティロウサのそれよりは遥かに穏やかではあるが、その容貌は見る者の心に奇妙な親しみ安さを沸き上がらせる。
今、その老人は静かに目を閉じ、マティロウサの大きな机に片肘ついて頭を支えていた。
その表情は楽しげで、微かに微笑を浮かべているかのようにさえ見えた。
マティロウサは、本当に老人が笑っていると思ったらしく、思い切り眉をひそめて口を曲げた。
「一体、何が可笑しくてにやけてるんだい、え?」
その苦々しげな口調に、思わず蝋燭の火も影をひそめて細くなる。老人は文句を言われてなお楽しそうな様子で、言葉を返した。
「いや、別に何が可笑しいと言うわけではない。これがわしの地顔なんじゃから仕方がないじゃろう」
「ったく、何時見ても幸せそうな顔してさ。見てると腹が立ってくるね」
「お前さんは何時見ても怒ったような顔をしているから、ちょうど釣り合いが取れていいんじゃないのかな? うん」
「誰が人の顔の心配までしてくれって言ったかね」
「ほい、心配はしとらん。いい面相じゃ。人を怖がらせるにはもってこいの顔じゃな」
「そういう褒め方をされて、喜ぶ人間がいるとでもお思いかね。顔のことなんかどうだっていいんだよ、今は。あんただって、わざわざ人の御面相にケチつけに遠路はるばるあたしを訪ねて来たわけじゃないだろうが、ええ?」
「ふむ」
老人は、枯れた指先で白い髭に触れながら、相変らず人の良さそうな顔で思案に耽った。
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