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突然、その老いた旅人は狂おしいまでの憎悪とそれに匹敵するような歓喜を心に覚えた。
それが自分の胸の内から出た感情ではないことを、旅人は気の触れた頭の片隅で分かっていた。
相反する二つの思いは、旅人が背に持つ麻袋から波動を発している。それは余りにも強烈で、その荷の持ち手にすら影響をもたらす程の力だった。
旅人は体を震わせた。
狂人と成り果てた今、彼にとって味方となるものは何もなく、大いなる力の前に為す術もなく操られるがままの命であった。
捕ラエタ。
旅人の心に一つの思念が響く。それは人間の言葉の形を取った意識の塊だった。
捕ラエタゾ。遂ニ。
捕らえた? 何を?
急ガナケレバ。
急ぐ? 何の為に?
アイツニ邪魔ヲサレル前ニ。
あいつ? あいつとは誰だ?
二つの思考がそれぞれ分散する。
老いた旅人の中に残された僅かの意識が麻袋へと流れ込む。流れ込むと言うよりは、圧倒的な力で吸い取られていくような、そんな感覚に近かった。もはや旅人にはその場に体を支えていられるだけの脚力もなく、投げ捨てられた石塊のように地面に膝をついた。
何も彼も奪っていく。
狂喜の淵に浸った頭の中で旅人は漠然と考えた。
考える自由だけは辛うじて未だ残されていたのだ。
こいつは自分から何も彼もを奪っていく積もりなのだ。あらゆる者、あらゆる人、あらゆる力。
そして、見よ、今こいつは地を歩く力さえも私から盗み去ろうとする気だ。
他の何の為でもない、こいつの為に私は安らぎすら許されず前へ、ただひたすら前へと進むことを強いられているというのに、それを知っていながらこいつは私の足すらも奪おうとしているのだ。
「私を解放するのが惜しくなったと見えるな」
狂える老いた旅人は笑った。
「だが、お前……」
地面に体を倒したまま、旅人は投げ出された麻袋を乱暴に掴んだ。
今度は中を覗こうともせず、固く絞られた袋の口を更に二、三度強く紐で巻き締めた。
汗ばんだ顔には苦しげな笑いに混じって、倒れた際にぶつけた地面の土が張り付いている。
「私にこの場で死なれて困るのはお前ではないのか? え? お前はあそこに行きたいのだろう? ほら、こうすればよく見えるだろうが、どうだ」
旅人は袋の口を握って、震える手を延ばし出来る限り高く差し上げた。
夕闇もそろそろ近くなりかけた空の下、ヴェサニールの街外れに建つ数軒の家の灯りが、その中に人が住まう証しであるかのように白く光り始めていた。彼方森を漸く抜け出した旅人が数ヵ月振りで目にする街の情景が、自分が倒れている道の先に連なっていた。
「あの街灯りの元へ行きたいのだろうが。そこで新しく犠牲となる者を探すのだろうが。私をここで潰したら、あそこまで一体誰がお前を運ぶのかね。自分の足で歩くことが出来ない以上、お前だってここに立ち往生だ、そうだろ? それとも……この状況の元でお前はただ私をいたぶりたいだけなのか? どうなのだ?」
旅人はもはや虚ろな瞳をしてはいなかった。
背筋が凍るような激しい視線の内には燃え盛る炎が火を弾いていた。
狂気の中の正気。狂気ゆえに生まれる理性が彼の中にはあった。
「お前は私に進めと言い、それなのに私の歩みを奪おうとする。そして私は進まなければ平穏を手に入れること能わぬというのに、何という事だ、足を運ぶ力をお前に掴まれてしまっているのだ。どうやらお前は私に平穏を与える心積もりは永久にないらしいな。人の心が平らかになるのを見るのはそんなにも気にそまぬか。やはりお前は魔だな。災いや不幸が何よりも好きな魔物だ……」
次第に疲労と苦痛が旅人の老躯を襲う。
既に起き上がることも適わなくなった旅人は、失いつつある意識の中で、地面に落とした袋から流れ出る思念のかけらを朦朧として感じ取ったような気がした。
ソノ通リ………
闇が迫っていた。
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