部屋の中は、相変わらず静かだった。
午後の早い時間である。
ここハコムラ本社・HBC では、恐らく諛左が及びもつかないほど数多の人間たちが
今この瞬間にも巨大な建物の中を行き来している、そんな時間帯の筈だが、
防音設備が完璧なのか、この部屋にいると、その気配すら感じられない。
殺風景で冷たい印象の部屋だった。
備品が少ない、というわけではない。
働くための部屋、という体裁は整っている。
しかし、ハコムラの首席秘書が在する執務室、という眼で見た限りでは、
その大層な肩書きにはそぐわない空間である。
さほど高級そうでもないソファセットをはじめ、
狭間本人がつい今しがたまで座を占めていたデスクも、
壁際に設えられた書類棚も、
ドア付近にポツリと立っているコート掛けも、
どれもが、機能と価格のみを重視したかのような味気なさがある。
それはそのまま、部屋の主の印象に通じるものがあった。
虚飾を嫌うタイプなのか。
改めて、諛左は目の前の人物を見た。
相手も、諛左を見た。
そして数秒間、不躾な視線を諛左に向けた後、狭間は何の前置きもなく口を開いた。
「事前のお話では、総帥夫人のご学友は女性の方だと伺っていましたが。
確か、ミス・フウノという名の。失礼ですが、貴方は?」
細面の顔に似つかわしい、少し高めの声が諛左の耳を打った。
先程と同様にきつい光を瞳に浮かび上がらせながら、まっすぐに諛左を見据えている。
歓迎とは真逆の意図をたたえた視線からすると、
やはり、愛想の良い応対を狭間から期待することは難しいようだ。
諛左は自らの名を告げ、さらに、笥村麻与香のご学友であるところのミス・フウノ、
つまりは J が、昨夜不慮の事故において負傷したため、
今日の会見に同行できなくなった旨を狭間に伝えた。
「ほう、怪我を……」
それは大変でしたね、と狭間は付け加えた。
ミス・フウノがこの場にいようがいまいが、明らかに興味がなさそうな口調である。
眼鏡をとって、疲れているらしい目頭を軽く押さえただけだ。
眼鏡という遮蔽物なしに近い距離で真っ向から見ると、蛇を思わせる顔つきだった。
華奢で小柄な、だが毒を隠し持つ白い蛇が、鎌首を持ち上げている。
などと、どうでもよい連想を頭の奥に追いやりながら、
諛左は狭間の顔から目をそらして咳払いをした。
「ご多忙なところをお邪魔してしまったようで、申し訳ありません」
そういう諛左の言葉に、ややシニカルな含みを感じ取ったのか、狭間の眉がぴくりと動く。
そして、
「それは否定しません」
きっぱりと言った。
「ミスター・ユサは 『事情』 をご存知のようだから、あえて申し上げますが、
なにしろ、『例の件』 以来、私のやるべきことが格段に増えましてね。
24時間フル稼働したとしても、まだ未処理の用務が山のように残っている、そんな現状です。
これはもう、秘書という職域を超えているのではないか、と思いますよ。
『事情』 を知らないとはいえ、他の役員たちのほとんどが接待やらパーティやら、
楽しげな表舞台を飛び回っているの見ていると、つくづく羨ましい。
いや、羨ましいというよりも腹が立つ。
まあ、彼らが 『事情』 を知っていたとしても、さほど役に立ったとは思えませんが。
彼らにとってハコムラ役員のポジションは、
安穏を約束してくれる、老いた身の最後の置き所でしかないのですからね。
興味があるのは、金回りのことだけです。
いや、それはどうでもいいことですが、何にせよ、まったく頭が痛い」
一気にまくしたてると狭間は、ふう、と息を吐き出し、口を閉ざした。
おいおい、いいのかそんなことを言って、と諛左は少々呆れた。
今の言葉が、多忙さをアピールしたものなのか、歓迎すべからぬ相手への牽制なのか、
それとも、疲労ゆえに口が軽くなった男の単なる愚痴に過ぎないのか、諛左には判断がつきかねた。
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