「真意……」
そう呟いたきり、狭間は黙り込んだ。
不平めいた台詞が多い男だが、慎重になるべき瞬間はわきまえているようで、
そんな時は口を開く前に、話すこと、話さざることを選り分けるための時間が必要らしい。
そのための沈黙なのだろう。
しかし、今回の沈黙は狭間に何のインスピレーションももたらさなかったようだ。
答えが見つからない解答者のように、視線を落として小さくため息をつく。
「……『あの人』 の真意など、誰にも判りませんよ」
あの人。
『夫人』 から 『あの人』 への変化。
そこにどんな心理が隠れているのか諛左には断定しかねたが、とりあえず口は挟まない。
「あの人はね、理屈じゃないんですよ。言動も、発想も、普通じゃない。
ああ、普通じゃない、というのは、異常という意味ではありませんよ。自由だ、ということです。
常識とか、法律とか、世間一般で尊重されている様々なルールが、
あの人には当てはまらない。縛られないんですよ。とにかく自由だ。
人によっては、その自由さが、気分屋だ、我儘だなどと映る場合もありますが。
人並みの基準しか持たない私などから見れば、扱いづらいこと、この上ない人種です。
いや、はっきり言って……苦手ですね」
批判している、ように聞こえる。
腹立たしく思っている、ようにも見える。
だが、裏に回れば、そんな自由な笥村麻与香に何かしら羨望に似たものを抱いている。
諛左の目にはそう映った。
道を踏み外すことなく、ごく常識的な人生を歩んできた品行方正な優等生。
そんな狭間が、自分とは真逆の自由奔放な相手に抱く曖昧なコンプレックス。
恐らく笥村麻与香は、
狭間のようなタイプの人間に謂れのない劣等感を植え付ける、そういう存在なのだろう。
そして、このように相反する両者が寄り合えば、
非常識ぶりに振り回されるのは、得てして優等生の方なのだ。
「もっとも、そういう奔放さが、総帥は気に入っていたようでしたがね。
総帥にも 『自由』 を愛する同様の気質がありましたし、まあ私に言わせれば」
似た者夫婦といったところでしょう、と狭間は眼鏡のフレームに手を掛けて
意味なく1、2度それを持ち上げる。
「ですから、ミスター・ユサ。先程あなたは、夫人の真意を問われましたが」
『あの人』 から 『夫人』 へ戻っている。
狭間の中で、感情の軌道修正が行われたようだ。
「あなた方への依頼を決めたのは、夫人の一存ですから。
残念ながら私には、夫人の考えていることは正直言って判りかねます。
事前に相談を受けたわけでもありませんし。
それでも強いて真意を問われるなら、そうですね、
夫人の気紛れ、といったところでしょうか。甚だ非論理的な解答ですが」
『あの女は気紛れだから』
これまでに何度も J が口にしていた同様の台詞を諛左は思い出した。
ロジカルか否か、それは置いておくとしても
狭間と J という異なるタイプの2人の人間から、図らずも同じ意見が出たということは、
恐らくその見解は当たっているのだろう、と諛左は思う。
どちらも根底に何らかの個人的な感情を含んでいるとしても。
成程、と短く答えることで、諛左はその話題を打ち切ることにした。
もともと、どうしても聞きたかった話ではない。
単なる前置きだ。
少し喋りつかれたのか、狭間は大きくため息をついて
眼鏡を外すと顔全体を片手で撫で上げた。
その、つるりとした仕草が、やはり諛左に蛇のイメージを思わせる。
あるいは、グラス・ファイバー製の人形か。
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