「……恨むぞ、諛左」
「なんだ、穏やかじゃないな」
「あの女、とんでもない依頼を持ち込んできた」
J は麻与香の話した内容をかいつまんで諛左に説明した。
聞き終わった諛左が口笛を吹く。
「今やニホン国家元首よりも有名な男を捜せ、とはね。
網にかかったのは、思わぬ大物だったというわけか」
「だからって、喜ぶ気にはなれないけど」
「なんで」
「なんで? なんでって、なんで? 当たり前だろう。相手はハコムラの総帥だよ。
一介の 『何でも屋』 の手に負える相手じゃない。んな危ない仕事に手を出せるか」
「大袈裟だな」
「でも、事実だ」
「だが、お前は引き受けたんだろう?」
「……『考えとく』 とは言った」
「それは受けたも同じだな、お前にとって」
「麻与香と同じこと言うなよ」
J はますます気分を滅入らせた。
タイミングよく諛左にコーヒーを運んできた千代子に、J は疲れた顔で頼んだ。
「千代子さん、すみませんがグラスにワインを一杯」
千代子が軽く眉を上げる。
それは無口な千代子が時折見せる、ちょっとした非難の表情だった。
だが、日も高いうちからアルコールを口にすることへの後ろめたさは、今の J にはない。
ちょっと肩を竦めて見せただけだった。
千代子は J の表情を見つめ、やはり何も言わず、同じように肩を竦めて部屋を出て行った。
何か言いたげな諛左の視線に気づき、言われる前に J が口を開く。
「今日の仕事は、もう終わりだ。ワインぐらい構わないだろう」
「昼過ぎに店じまいして酒に走るとは、大した殿様商売だな」
「放っとけ。たった1時間の労働が、1日分の疲労に相当することだってあるんだから」
そう、たった1時間。麻与香がオフィスを訪れてから帰るまでの時間。
その間の精神的苦痛を考えれば、今日はもう勤勉に仕事を続ける気は起こらない。
J は勝手な理屈で自分自身を納得させた。
「麻与香の件は、明日から動くことにする。それまでは臨時休業」
「やっぱり受けるんだな。まあ、動くつもりがあるなら、それでいいが」
「……仕方ないだろう」
J は目の前の机の上に目を落とす。
そこには小切手と白い封筒が置かれたままだった。
「あの女、こっちが断りにくいように、依頼料を先払いしていった」
それに、この依頼を引き受けなければ、きっと麻与香は連日このオフィスを訪れて、
J が応じるまで口説き続けるに違いない。
それは何としても避けたい。
それよりは、適当に動いて茶を濁す方が恐らく楽だろう。
こんなことを諛左に話せば 「それがプロの発想か」 と、また説教されそうだが。
「それに……」
「ん?」
「……いや」
去り際に麻与香がほのめかした意味深な言葉が J の心に引っかかっていたが、
それを諛左に伝えなければならない理由は特にない。
J は開きかけた口を閉ざした。
「先払いとは景気がいいな。少なくとも、これで事務所の借り賃が払える」
小切手の額と封筒の中身を調べた諛左が、他人事のように J に笑ってみせる。
この雇い主にして、この雇い人あり、と言うべきか、J と同じことを考えたようだ。
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