千代子が二人分のカップを手に静かに部屋に入ってくる。
ダウンエリアのコーヒーが、果たしてハコムラ・コンツェルンの人間の口に合うかどうか。
もっとも、合おうが合うまいが J にとってはどうでもいいことだった。
大柄な千代子の姿がドアの向こうに消えると、麻与香はいきなり尋ねた。
「ねえ、表のドアに書いてあった J of all trade って、事務所の名前?」
「まあね」
「『 J 』 って、『Jack 』 の略? それとも 『 J・E・N・フウノ 』 の J ?」
「……さあね」
覚えていたのか、本名を。しかもフルネームで。
J・E・N・フウノ。
今では呼ばれることもほとんどなくなったその名前を麻与香に口にされたことで、
既に J はウンザリしていた。
J の胸中を察することもなく麻与香は話し続ける。
「ふうん、ここがアンタのオフィスか……。なんか想像してたのとちょっと違うわね」
辺りを見回す麻与香の視線の先には、
恐らく彼女が住む世界とはまったく異なる、うらぶれた光景が映っているのだろう。
目の中に見え隠れする物珍しげな表情がそれを語っている。
「どんなところを想像していたかは知らないけど、ご期待に添えなくても謝る気はないから」
「ふふ。やっぱりアンタ変わってないわね。捜させた甲斐があったわ。
あたし、アンタにずっと会いたかったの」
J は思わず口を閉ざした。
成程。
この女は、何年も会ってない人間の消息をわざわざ捜してまで、ここへやってきた訳か。
J は煙草に手を延ばした。
吸う前から頭がクラクラした。
ライターを点ける音が妙に J の手元から遠く聞こえる。
いつもなら吸う前に依頼人に伺いをたてるところだ。
だが、麻与香にいちいち許可を得る気は J にはなかった。
麻与香の方もそんなことは気にしない。
黙り込む J を見つめて、自分もバッグから華奢なシガレットケースを取り出すと、
優雅な手つきで火を点ける。
スリムで長い西洋煙草の趣味も昔のまま。
酷薄な微笑みも昔のままだ。
麻与香は艶々とした赤い口紅の間から細い煙を糸のように吐き出して J を見た。
「卒業以来会ってないけど、あたしはアンタが何処で何をやってるかずっと気になっていたわ。
アンタのこと調べさせたら、
この事務所のことも呆気ないほどすぐに判って、ちょっと拍子抜けしちゃった」
「……」
J は心の内で軽く舌打ちをした。
カレッジ時代、麻与香は何故か事あるごとに J に付きまとってきた。
J にとっては不本意極まりない麻与香の執着は、
二人が顔を会わせなくなって久しい今までも続いていたらしい。
会う機会がなくなれば、自分のことなど記憶からも薄れていくだろう。
そう J が望んだ予想図は麻与香にとっては無意味だったようだ。
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