雪のことを思うと、J の心には必ず子供の頃の記憶が呼び覚まされるのだ。
空から降ってくる、冷たくて白くて得体の知れないものを
初めて見た時の記憶は、10年以上経った今でも、まだ薄れていない。
黒髪に黒い瞳という典型的なニホン人の容姿を持った J。
しかし生まれたのは、ニホンから遥か遠い国である。
そこは年中熱気と雨と樹木におおわれていた極地で、
暦の上で冬が訪れても、気温は高いままだったし、
ましてや雪など目にすることは決してなかった。
かつてその地で、J の父は自分の娘の顔を覗き込みながら、こう教えた。
『北の地方では、寒くなると空から雪という白いものが降ってくる』 と。
『雪は天に昇れなかった堕天使の魂。
それが砕けて地上に降り注ぐのだ』 と。
父親が何を言わんとしているのか、当時の J には判らなかった。
幼い J は雪のことは勿論、天使の存在すら知らなかったし、
父親の抽象的な説明を理解できるほど成長してもいなかった。
たった数年しか生を経ていない J にとって、
その2つは何の縁もゆかりもない無意味なものでしかなかったのだ。
やがて、父親の故郷であるニホンに連れてこられた J は、
そこで生まれて初めて雪を見たのだ。
ひらひらと空から落ちてくる、白くてもろい、冷たいもの。
手のひらに受けると、あっという間にただの水滴になってしまう。
これが堕天使とやらのなれの果てか。
取り立てて何の感動も覚えずに、J は父親の言葉を思い出しながら空を見上げたものだ。
昔と違って、その頃には既に天使という言葉が持つ意味も理解していた J だが、
ヒト以外の存在を信じることも、それに救いを求めることも必要としない J にとっては、
やはり、あの頃同様、無意味な存在であることに変わりはなかった。
父はあの時、どういうつもりで幼い J にあんなことを言ったのか。
その意図は未だに J は判らない。
だが、白く、無垢な雪の結晶を堕天使と結びつけるのは、
大多数の人々が持つ信心に対しての、父なりの皮肉の表われであったのかもしれない。
そう、あれはそういう男だった。
そこまで考えて、J ははっと我に返った。
いつの間にか、自分の中にある、自分自身ですら触れたくない心の領域に
足を踏み入れようとしていることに気づいたからだ。
どうしたことだ。
さっきから、昔のことばかり思い出してしまう。
箱の中にしまい込んで、とうに蓋を閉めてしまった筈の記憶が、
出口を求めて J の脳裏を駆け巡っていた。
幼かった自分の姿が思い浮かぶ。
あの頃。
今のアリヲよりも背が低く、思考さえも幼稚だった J にとって、
世界は実に単純なシロモノだった。
頭を悩ませる必要がない程に。
あれから20年近く経った今は、どうだろう。
たとえ歳月は過ぎても、
根本に当たる部分では、あの頃と全く変わっていない自分が、ここにいる。
いつも J はそんな気がしていた。
それなのに。
今の自分を取り巻く世の中はどこか息苦しく、悩ましい。
世界が生き急いでいるだけなのか。
それとも、自分が成長すべきだったのか。
そんな思いが、J を心の深いところで打ちのめす。
今となっては、どちらに答えを見出すか、それすらも面倒に思える J であった。
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