仁雲が幸運かどうかについて、阿南は反論も含めて特に何も言わなかった。
部下の心境を推し量ることは阿南にも容易にできた。
ただ、それを理解あるいは賛同できるかどうかは、別問題だった。
逆に、自らをラッキーと言う仁雲が、阿南の心情を察することはできないだろう。
仁雲と違って阿南はかつての自分を恋しがっている。
恐らく再びキナ臭い世情になれば、阿南はすぐに笥村家を辞すだろう。
そして、争いの予兆が渦巻く中へ飛び込んでいくだろう。
それは仁雲にはもう二度とできない生き方である。
闘うという本能が阿南の中には未だにくすぶっている。
それは恐らく一生自分の中に存在し続けるのだろう。
救いようがない。
阿南は再び自嘲せざるを得なかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「阿南さん」
仁雲の呼びかけが、物思いにふける阿南を現実に引き戻した。
見ると仁雲の視線が、街路に面した笥村邸の外門の辺りに向けられている。
阿南は仁雲に倣って、目を向けた。
女が一人、立っていた。
阿南は急速に自分の職務を思い出し、姿勢を正して正面から女の姿を見つめた。
外門から屋敷の入り口までは、弧を描くようにレンガを敷きつめた道が続いている。
その道の一方の端に阿南と仁雲が、その逆の端に女がいた。
女はしばらく門の外から屋敷の様子を眺めていたが、
やがて、ゆっくりと2人の護衛がいる方へ向かって歩き始めた。
その足取りは落ち着いていて、淀むところがなく、
天下のハコムラ・コンツェルンの根城に踏み入れたことへの躊躇も畏怖も感じられない。
「誰ですかね、阿南さん」
不審そうに女に目をやる仁雲に、阿南は素っ気なく答えた。
「執事のミヨシが言ってただろう。近々客人があるってな」
「……ああ、奥様のご学友とかいう。あの人がそうなんですかね。
なんて名前の客でしたっけ? ええっと……」
客人を誰何するべき役目の人間が発する言葉とは思えない、頼りなげな後輩である。
仁雲には答えず、阿南は徐々に近付いてくる女の姿を見据えた。
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