爪先が地面に届いたとき、ようやくサフィラは集中を解いてゆっくり息を吐いた。魔道によってサフィラの身体を支えていた空気の塊が、周囲の茂みを揺らせながら四方に散っていく。
サフィラは門番のいる方を窺い、気づかれた様子がないことを確認すると、居館の裏にある馬舎へと足音を立てないように急いだ。
サフィラの愛馬カクトゥスは主人の姿を目にして鼻息を荒くし、地面を足で掻いた。サフィラはカクトゥスのしなやかな首を優しく撫でて、静かに、と囁きかけた。途端にカクトゥスが大人しくなる。
カクトゥスに馬具を乗せ、その手綱を引いて馬舎を出たサフィラは、そこで一旦立ち止まった。
ここまでは、さほど手間ではなかった。
問題は。
サフィラは門番達から死角になるよう居館の陰に身を潜めると、正門の辺りをそっと窺った。
昼間であれば、サフィラが城を抜け出すことに馴れている兵士達は、形だけは止めようとするが概ね寛容に見逃してくれる。しかし、今のような夜も更けた時刻に一国の王女が城を出ようとしている姿を見たならば、決して手を振って見送ってはくれないだろう。
サフィラは足音を忍ばせながら少しずつ門へと近づき、使いたくなかったが、と独り言を呟きながら腰に提げた袋の中から小瓶を取り出した。中には黒く細かな粉が入っている。それはヴィザという薬草を干して粉末にしたもので催眠効果があり、マティロウサやサリナスも怪我人の痛みを抑えるためによく使っている薬の一種である。
サフィラは小瓶の蓋を開けてゆっくりと傾けながら、小さく呪文を呟く。
風よ
流れを変えよ
唱え終わった途端に、一陣のやわらかな風がどこからか吹いて、小瓶からこぼれ落ちる粉を忍びやかにさらっていった。サフィラは再び門の辺りに目をやった。
二人の門番は何事かを談じながら、己の任務を果たしていた。
やがて、一人が手に口を当てて欠伸をかみ殺し、もう一人がそれに倣った。それが数回続いた後、門番達は自らが守るべき門に身体をもたれかけると、そのままずるずると地面に座り込み、かくり、と頭をたれた。
風に乗せてサフィラが送ったヴィザの粉の効果は信用するに足るものがあるようだ。
サフィラはカクトゥスに騎乗すると、ゆっくりと門を潜り抜けた。
二人の門番が健やかな表情で眠り呆けている姿に向かって 「すまん」 と小さな声で謝罪の言葉を投げる。しばらく時間が経てば二人とも目が覚める筈だ。
人に対して魔道を使うことを好まないサフィラだったが、他に方法も思いつかず、またこれが一番手っ取り早いやり方だった。
老シヴィなら。
サフィラはカクトゥスを進ませながらふと思った。
あの魔法使いやマティロウサだったら、こんな手間をかけずにあっという間に城から街へその身を移すことができるのだろう。だが、生身の人間を(今の場合は自分自身を)何事もなく瞬時にして別の場所へ移動することは、たとえ優秀な魔道騎士のサフィラといえども少々自信がなかった。
失敗すれば命の安否にまで関わってしまう大技だからである。
マティロウサのもとで魔道を教わり始めた頃のこと、古い手桶を家の中から外へ移動する魔道をサフィラが初めて行ったとき、移した筈の手桶がバラバラになって地面の上に転がっていた。その光景を思い出してサフィラは身震いした。
あの頃よりも魔道の腕は確実に上がっているとはいえ、命あるものが対象となる場合は慎重にならざるを得ない。「失敗して壊れてしまいました」 と言い訳するわけにはいかないからである。
門を潜り抜けたサフィラは、考え事にふけりながらも、できるだけカクトゥスが足音を響かせないように草が生えている場所を選びながら、ゆっくりと愛馬の歩みを進めてサリナスの家をめざした。
しかし、あれほど万全を期したにもかかわらず、迂闊にもサフィラは気づいていなかった。
サフィラが窓から飛び降り、門番を眠らせ、堂々と城の外へ出るまでの一部始終を、居館の一室からずっと見ていた者がいたことを。
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