マティロウサの家はひどく古い石造りの平家だった。
中はいつも薄暗く、蝋の溶ける匂いが辺りに漂っている。
壁に張り付いた幾つもの戸棚には、さまざまな色の液体が入った大小とりどりの瓶、不思議な文字で何か書き記されているラベルを貼った箱、見たこともない植物を日の光の当たらない所で干したもの、触れると散り散りに消し飛んでしまいそうな変色した古い羊紙皮の束、そして動物の黒い皮を表に貼った厚く重々しい本の数々が所せましと並べられていた。
全て魔の術に関する物である。
マティロウサは魔女である。
それも 『古の諸々の魔法使い、あるいは魔女の名において』 魔道騎士の称号を人に授けることを許された数少ない一人である。
さて、サフィラも資格を有する 『魔道騎士』 とは何か。
古来、人はいわゆる自然や人智を超えた不可思議な現象や力を本能的に忌み嫌いながらも、生命を、あるいは国を守るためにそれらの超自然的な力に頼って武力の支えにしてきたことは事実である。そのような背景の中、魔道、魔法の類は未知かつ絶対の可能性であり、それを自由に使いこなすことができる者はある時は国主よりも重きを置かれた。
そして、この魔道の対極をいくのが剣、いわゆる騎士、戦士たちによって発揮される力である。
おのれの肉体の鍛練によって得られる技を信じ、剣を使って障害を切り捨てる力だ。
魔道と剣術。
本来は相容れない両者の融合をあえて具現したのが、『魔道騎士』 という特異な存在であった。
彼らはどちらにも属さず、どちらにも長けている。
もともと魔道騎士は、騎士や戦士が戦さにおいて、剣と魔道のどちらにも対処できるように簡単な呪文を身につけたのが始まりといわれている (逆に、魔道を使う者は剣を使おうなどとは考えもしないのだ)。しかし、今では騎士にとって魔道騎士の称号を得ることは一種の栄誉であり、本来の目的から離れてはいたが、依然として称号を希望する者が多いのは事実であった。
だが、望む者の数に対して見事にその資格を得る者の数は一割にも満たない。
試問が大層難しい上に、ほぼ九分九厘の正答率を出さないと合格とは認められないのだ。
騎士としての体力的な要素、剣の技術はもちろん、古の国の言葉の読解、薬となる植物の識別、適切で有効な呪文の使用、魔道の禁忌に関する知識などなど、合わせて千以上もの試問のほとんどに正しく答えなくてはならないのだから、この魔道騎士の検定に一度で合格する者はまずいないと言ってよいだろう。
試問に合格したなら、その騎士には魔道騎士の称号と共に、その証しとして紫貝の紋章と魔道名が与えられる。魔道名とは魔道との折り合いを円滑にするために魔法使いから与えられる名前で、その中には必ず 『魔(マギ)』 の一文字が含まれていなくてはならない。
なお、試問を受けることを許されるのは15才からである。
魔道騎士の試問を行い、称号を最終的に授けるのは、指定されている最上級の魔法使い等の役目である。
今ではその魔法使いの数も少なくなり、主だった者には、生ける伝説の主ア・アーカウラ、コレタ島のハスール、魔法使いの谷に住む老シヴィ、夢覚ましウァシネセリ、偉大なる者カイナック、フェレ・ハ・リシなどがいる。
そして、ヴェサニールのマティロウサもその一人だった。
『夢解き』 と呼ばれているウィルヴァンナという娘は、マティロウサの養い子である。
十数年前に拾われて以来、魔女の名を継ぐ者として修行に励んでいた。生来、魔の技を操る才があり、いつの日かきっと自分を越える力を身につけるだろうと、マティロウサの方も自分の知識のすべてをウィルヴァンナに与えるつもりだった。
その愛娘ウィルヴァンナについて、マティロウサが眉をひそめることが一つあった。
以前からもそうであったが、サフィラの友人である (王が認めるところではないが) 魔道騎士サリナスを見る娘の目が最近特に熱を帯びてきたことである。
勿論ウィルヴァンナの口から 「恋」 という言葉を聞いたわけではないが、老魔女にとって隠した心の内を読み取るくらい造作もないことだった。
若き魔道騎士の優美な顔立ちと立居姿は多くの娘たちの心を引いて止まず、ウィルヴァンナもその一人であったわけだが、老魔女はこのことをあまり喜ばなかった。
今はすべての意識を修行に注いでもらわなければならない。
そんなときに、他所事に気を取られるのは魔女にとっては好ましくないことだった。
この日快活な足音が聞こえてきた時、ウィルヴァンナは四つ角の井戸に水を汲みにきたところだった。ウィルヴァンナは馬のいななきを耳にすると、手にした桶を地面に置き、顔を輝かせて街道へと目をやった。
二頭の馬の乗り手を認めて、ウィルヴァンナは急いで側に駆け寄り、軽くお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいました、サフィラ様、サリナス様」
「やあ、『夢解き』 のウィーラ、ずいぶん久し振りのような気がするな」
サフィラは透き通った声で少年のように快活に言った。
ウィルヴァンナを古の賢女ウィーラニアにあやかって 『ウィーラ』 と呼び始めたのはサフィラである。ウィルヴァンナはその呼び名を気に入っていた。
「マティロウサはいる?」
「ええ、いらっしゃいますわ。今、知らせてきますわ」
「いや、いいよ、ウィーラ。いきなり行って脅かしてやろう」
「マティロウサが馬の足音を聞き逃がすとでも思っているのか?」 サリナスが笑いながら言った。
「水に落ちた羽毛の音だって聞こえるんだぞ、あの地獄耳は」
「まあ、サリナス様。でしたら、あなたが今おっしゃったことも、きっと今頃あの方のお耳に入っているかもしれませんわね」
「それは困る。口の悪さで小言を受ける役はサフィラに任せておこう」
サリナスは、晴れやかな瞳をウィルヴァンナに向けて微笑んだ。
ウィルヴァンナは呼吸が止まりそうなほどに自分の心が沸き立つのを感じた。
サリナスの言葉にサフィラがむっとする。
「失礼な奴だな。私は口は悪くない。正直なだけだ」
「正直すぎるのも時と場合によるが、少なくとも王女の使う言葉遣いではないことを自覚しろ」
「王女だと思うからさ。王族である前に魔道騎士。この考え方が正しい」
「王が聞いたら何と言われるか」
「冗談に聞こえないかな」
「聞こえると思うか?」
「賭けるか?」
サリナスが小さなため息をつく。
「父王をネタに賭けをする王女なんて、きっとどんな昔話にだって出てこないだろうな」
「そうか? だったら珍しい王女を持つヴェサニールの民はさぞ幸せ者だな。それよりウィーラ」
サフィラは、ウィルヴァンナに目を向けた。
「水汲み手伝おうか? 大変そうだ」
「いえ、とんでもない。サフィラ様にそんなことしていただいたらマティロウサ様に叱られてしまいます。お気持ちだけで結構ですわ。それより早くマティロウサ様をお伺いしてくださいませ」
「そう? それなら先に行ってるから。また後でね、ウィーラ」
言うが早いかサフィラは馬の頭を町はずれの一軒家へと向け駆け出した。
慌ててサリナスがそれに倣い、ウィルヴァンナにうなずくとサフィラの後を追った。
ウィルヴァンナはしばらくの間二つの後ろ姿を、特に栗毛の方の乗り手をぼんやりと見送っていたが、やがて小さくため息をついて地面の手桶の方へ手を伸ばした。
→ 第一章・ヴェサニールの魔道騎士 4 へ
中はいつも薄暗く、蝋の溶ける匂いが辺りに漂っている。
壁に張り付いた幾つもの戸棚には、さまざまな色の液体が入った大小とりどりの瓶、不思議な文字で何か書き記されているラベルを貼った箱、見たこともない植物を日の光の当たらない所で干したもの、触れると散り散りに消し飛んでしまいそうな変色した古い羊紙皮の束、そして動物の黒い皮を表に貼った厚く重々しい本の数々が所せましと並べられていた。
全て魔の術に関する物である。
マティロウサは魔女である。
それも 『古の諸々の魔法使い、あるいは魔女の名において』 魔道騎士の称号を人に授けることを許された数少ない一人である。
さて、サフィラも資格を有する 『魔道騎士』 とは何か。
古来、人はいわゆる自然や人智を超えた不可思議な現象や力を本能的に忌み嫌いながらも、生命を、あるいは国を守るためにそれらの超自然的な力に頼って武力の支えにしてきたことは事実である。そのような背景の中、魔道、魔法の類は未知かつ絶対の可能性であり、それを自由に使いこなすことができる者はある時は国主よりも重きを置かれた。
そして、この魔道の対極をいくのが剣、いわゆる騎士、戦士たちによって発揮される力である。
おのれの肉体の鍛練によって得られる技を信じ、剣を使って障害を切り捨てる力だ。
魔道と剣術。
本来は相容れない両者の融合をあえて具現したのが、『魔道騎士』 という特異な存在であった。
彼らはどちらにも属さず、どちらにも長けている。
もともと魔道騎士は、騎士や戦士が戦さにおいて、剣と魔道のどちらにも対処できるように簡単な呪文を身につけたのが始まりといわれている (逆に、魔道を使う者は剣を使おうなどとは考えもしないのだ)。しかし、今では騎士にとって魔道騎士の称号を得ることは一種の栄誉であり、本来の目的から離れてはいたが、依然として称号を希望する者が多いのは事実であった。
だが、望む者の数に対して見事にその資格を得る者の数は一割にも満たない。
試問が大層難しい上に、ほぼ九分九厘の正答率を出さないと合格とは認められないのだ。
騎士としての体力的な要素、剣の技術はもちろん、古の国の言葉の読解、薬となる植物の識別、適切で有効な呪文の使用、魔道の禁忌に関する知識などなど、合わせて千以上もの試問のほとんどに正しく答えなくてはならないのだから、この魔道騎士の検定に一度で合格する者はまずいないと言ってよいだろう。
試問に合格したなら、その騎士には魔道騎士の称号と共に、その証しとして紫貝の紋章と魔道名が与えられる。魔道名とは魔道との折り合いを円滑にするために魔法使いから与えられる名前で、その中には必ず 『魔(マギ)』 の一文字が含まれていなくてはならない。
なお、試問を受けることを許されるのは15才からである。
魔道騎士の試問を行い、称号を最終的に授けるのは、指定されている最上級の魔法使い等の役目である。
今ではその魔法使いの数も少なくなり、主だった者には、生ける伝説の主ア・アーカウラ、コレタ島のハスール、魔法使いの谷に住む老シヴィ、夢覚ましウァシネセリ、偉大なる者カイナック、フェレ・ハ・リシなどがいる。
そして、ヴェサニールのマティロウサもその一人だった。
『夢解き』 と呼ばれているウィルヴァンナという娘は、マティロウサの養い子である。
十数年前に拾われて以来、魔女の名を継ぐ者として修行に励んでいた。生来、魔の技を操る才があり、いつの日かきっと自分を越える力を身につけるだろうと、マティロウサの方も自分の知識のすべてをウィルヴァンナに与えるつもりだった。
その愛娘ウィルヴァンナについて、マティロウサが眉をひそめることが一つあった。
以前からもそうであったが、サフィラの友人である (王が認めるところではないが) 魔道騎士サリナスを見る娘の目が最近特に熱を帯びてきたことである。
勿論ウィルヴァンナの口から 「恋」 という言葉を聞いたわけではないが、老魔女にとって隠した心の内を読み取るくらい造作もないことだった。
若き魔道騎士の優美な顔立ちと立居姿は多くの娘たちの心を引いて止まず、ウィルヴァンナもその一人であったわけだが、老魔女はこのことをあまり喜ばなかった。
今はすべての意識を修行に注いでもらわなければならない。
そんなときに、他所事に気を取られるのは魔女にとっては好ましくないことだった。
この日快活な足音が聞こえてきた時、ウィルヴァンナは四つ角の井戸に水を汲みにきたところだった。ウィルヴァンナは馬のいななきを耳にすると、手にした桶を地面に置き、顔を輝かせて街道へと目をやった。
二頭の馬の乗り手を認めて、ウィルヴァンナは急いで側に駆け寄り、軽くお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいました、サフィラ様、サリナス様」
「やあ、『夢解き』 のウィーラ、ずいぶん久し振りのような気がするな」
サフィラは透き通った声で少年のように快活に言った。
ウィルヴァンナを古の賢女ウィーラニアにあやかって 『ウィーラ』 と呼び始めたのはサフィラである。ウィルヴァンナはその呼び名を気に入っていた。
「マティロウサはいる?」
「ええ、いらっしゃいますわ。今、知らせてきますわ」
「いや、いいよ、ウィーラ。いきなり行って脅かしてやろう」
「マティロウサが馬の足音を聞き逃がすとでも思っているのか?」 サリナスが笑いながら言った。
「水に落ちた羽毛の音だって聞こえるんだぞ、あの地獄耳は」
「まあ、サリナス様。でしたら、あなたが今おっしゃったことも、きっと今頃あの方のお耳に入っているかもしれませんわね」
「それは困る。口の悪さで小言を受ける役はサフィラに任せておこう」
サリナスは、晴れやかな瞳をウィルヴァンナに向けて微笑んだ。
ウィルヴァンナは呼吸が止まりそうなほどに自分の心が沸き立つのを感じた。
サリナスの言葉にサフィラがむっとする。
「失礼な奴だな。私は口は悪くない。正直なだけだ」
「正直すぎるのも時と場合によるが、少なくとも王女の使う言葉遣いではないことを自覚しろ」
「王女だと思うからさ。王族である前に魔道騎士。この考え方が正しい」
「王が聞いたら何と言われるか」
「冗談に聞こえないかな」
「聞こえると思うか?」
「賭けるか?」
サリナスが小さなため息をつく。
「父王をネタに賭けをする王女なんて、きっとどんな昔話にだって出てこないだろうな」
「そうか? だったら珍しい王女を持つヴェサニールの民はさぞ幸せ者だな。それよりウィーラ」
サフィラは、ウィルヴァンナに目を向けた。
「水汲み手伝おうか? 大変そうだ」
「いえ、とんでもない。サフィラ様にそんなことしていただいたらマティロウサ様に叱られてしまいます。お気持ちだけで結構ですわ。それより早くマティロウサ様をお伺いしてくださいませ」
「そう? それなら先に行ってるから。また後でね、ウィーラ」
言うが早いかサフィラは馬の頭を町はずれの一軒家へと向け駆け出した。
慌ててサリナスがそれに倣い、ウィルヴァンナにうなずくとサフィラの後を追った。
ウィルヴァンナはしばらくの間二つの後ろ姿を、特に栗毛の方の乗り手をぼんやりと見送っていたが、やがて小さくため息をついて地面の手桶の方へ手を伸ばした。
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