しかし、夜になると城への出入り口はすべて施錠され、鍵を管理するのは石頭の老侍従クェイトである。「私は王女だ。鍵を貸せ」 と言ってすんなり 「承知しました。王女様」 という相手ではない。
また、ここ最近は 「婚礼を控えた王女に何事も起こらぬように」(正確には「逃げ出さないように」)と王の厳命を受けた兵士達が、サフィラの部屋の前を昼夜を問わずうろうろと行ったり来たりして目を光らせているため、逃げ出す唯一の道は自室の窓しかない。
サフィラの部屋は居館の五階にあり、窓の外には壁を伝うための手掛かり足掛かりとなるものが一切ないため、内の厳重さに比べて外には見張りの兵士もなく、高さを除けば無防備なことこの上ない。父王もまさか娘が窓を脱出口にするだろうとは思いもつかなかったらしい。
また、これまで何度も城を抜け出して父王を憤慨させてきたサフィラだが、実は夜間にそれを実行したことは未だかつてない、という事実も王の判断を鈍らせる手助けをしたようだ。
闇夜なら良かったのに。サフィラはもう一度恨めしそうに空を見上げた。
たとえ人の目がなくても、明るい月の光に照らされていると、空の上から人ならぬ何者かに自分の行動をすべて見透かされているような気分になり、何となく落ち着かない気分になる。
こんな時間に訪ねて行ったら驚くだろうか。驚くだろうな。
月光を浴びながら、ふとサフィラはサリナスの反応を気にかけた。
しかし、ここしばらくは城から出ることも許されず、ほとんど話す機会がなくなった親友の魔道騎士には、「城出」 実行前にどうしても会っておきたかったのである。
自分の計画を打ち明けるか否かはともかくとして。
サフィラは窓の遥か下方に広がる前庭を覗き込んだ。
石造りの池を囲むように刈り込まれた芝生と、ところどころに植えられた花が咲き誇る前庭は、サフィラの母后がとりわけ好む空間であった。昼間であればその美しさに感嘆する者も多いだろうが、その鮮やかな色彩は今は月光の中で多少色あせ、背の高い木々が地上に黒々とした陰を落として、日中とは異なる趣の景色をサフィラの目に映していた。
サフィラの視線が前庭を横切り、正門に到達する。
門では夜警の兵士が二人、不審な者の出入りがないよう番を務めていた。とはいえ、のどかなヴェサニール国では今だかつてそのような不審者が捕らえられたことはもとより、見かけた者すらいないのだから余り番人の意味はないのだが、夜間の不寝番は慣例的に行われている。
サフィラはその姿を目に留めて小さく舌打ちし、しばらく何事か考えていたが、やがて決心したように深く呼吸して目を閉じ、意識を集中して小さな声で呟いた。
大気よ
我が元へ集え
普通の人間にはまったく意味をなさないその言葉は魔道の呪文である。唱えると同時にサフィラは窓から地上へと身を躍らせた。
人が見たら、世をはかなんでの投身かと誤解したことだろう。
しかし、常人ならばそのまま地面に激突して死に至るだろうが、サフィラの身体は何もない宙にしばし留まり、やがてゆっくりと、まるで水中に身を沈めていくかのように地上へと下りていった。マントが蝶の羽のようにサフィラの周囲でふわりと舞った。
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