ドアが閉まってエレベータが動き出す。
緩慢な浮遊感が与える不快さに、J は眉をひそめた。
三方を囲むガラスの向こうでは、
エレベータが上へと移動するにつれてコンクリートの壁が下へ下へと向かっている。
「……階段の方がいいのに」
狭苦しい空間を嫌う J が、ぽつりと洩らす。
しかし、那音は鼻で笑った。
「78階まで? 日が暮れるぜ」
「……」
傍らの電光掲示に浮き出ている 『78』 というデジタルな数字を確認し、
J はため息をついた。
100近い階層を持つビルディングである。
78階というのが、恐らく重役専用のフロアなのだろう。
「まったく、『バカ』 と 『何とか』 は……」
すぐ高いところに昇りたがる。
小声で呟いた J の言葉は、今度は那音の耳に入らなかったようだ。
車の中と同様に、ここでも那音の問わず語りが始まっていた。
勿論、J も先程と同様に相手にしていなかったが。
エレベータはゆっくりと重力に逆らって上へと動いていく。
やがて地下を抜け、透明な円柱ボックスの周囲に外の光景が現れてきた。
数分ぶりの自然光は、J の気分を幾らか落ち着かせた。
そのまま更に上階を目指す。
閉ざされた空間の中、J は次第に足元よりも低くなっていく街の様子を眺めていた。
人が、車が、建物が、少しずつ街の中に溶け込んでいき、
やがて一体化して見えなくなる。
まるで化学の分子構造を見ているようだ。
J の頭の中に、遥か昔にジュニア・ハイで学んだ授業がふと甦る。
気の遠くなるほど小さい粒子が集まって形成される、一つの物質。
街も同じなのだ。
『街』 は最初から存在するのではない。突然生まれるわけでもない。
そこに生活する人、行き交う車の群れ、立ち並ぶビルの林……。
そういった様々な物質から構成されたものが、『街』 という曖昧な観念になっている。
見下ろす景色の中で、とりわけぼんやりと靄がかかっている区画。
あれは自分の棲息するダウンエリアの辺りだろうか。
住民の心境そのままにグレイに霞んでいる。
そう見えるのは、自分の錯覚なのだろうか。
虚しさとも鬱気ともつかない複雑な感情が、J の心に連なって襲い掛かる。
『街』 を基準にして考えれば、
人間一人一人の考えや行動など、取るに足らない些細なものだろう。
個の中の個。集団の中の個。
しかし、どんなに微少であっても、確かにヒトは存在している。
エレベータは既に遥か高い位置まで2人を運んでいた。
眼下に広がる街絵図。
ここからは見分けもつかないが、人間たちは今も地上に張り付いて蠢いている。
地上だけではない。
そびえる建造物、走り過ぎる車、どの一つ一つの中にも人間が溢れているのだ。
ヒトの集合体。一つの 『街』 から 『国』 へ。
K-Z シティ、ニホン、そしてアース……。
取り止めもなくマクロに拡大していく視点の中で、
蟻のように地面を動き回る膨大な数の人間の姿を想像した J は、
思わず吐き気がしそうになり、急いで目を閉じた。
エレベータの機械的な速度が、J の感覚を震わせる。
少し酔ったのかもしれない。
このまま上へ上へと昇り続けると、そのうちに天国まで辿り着いてしまうのでないか。
そんな錯覚すら覚えてしまう。
閉ざした瞼の裏で外の明るさを感じながら、J は目的の階への到着を待ち望んだ。
ようやく J の足元で速度が緩やかになり、
78階に到達したことを知らせる硬質な電子音とともにエレベータが止まる。
無機質に開くドアから出て行く那音の後を、少し青褪めた顔色の J が追う。
フロアの床を踏んだ瞬間、ちらりと背後を振り向いた J の目には、
透明な筒の向こう側、その遥か下方で地上が蠢いているような気がした。
ドアが閉まって視界が閉ざされた時、奇妙な安堵感が J の胸中に広がった。
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